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ウルトラ38番目の弟

ウルトラマン、仮面ライダー、スーパー戦隊、鉄神ガンライザー、ゴジラ、ガメラ、アメコミ映画と色々な事を書いていくブログです。

『GODZILLA』(1998年公開)

ゴジラ

GODZILLA

1998年5月19日アメリカ公開

監督 ローランド・エメリッヒ

脚本 ローランド・エメリッヒ ディーン・デブリン

 

通称、エメゴジ。
「これ、モンスターパニック映画であってゴジラじゃないよね?」と言われたら反論できない作品。その辺りについては後で語るとして、まずはゴジラシリーズの一本ではなくて、この作品単独で語っていきたい。
 
まず特撮のレベルが高い。巨大な足跡とか、ゴジラが迫ると街がズシンズシン!と揺れていくとか、スピーディーな破壊シーンとか、さすがハリウッドと言う感じ。
その一方でドラマは展開が軽めのノリでサクサクと気楽に見られるが、テーマと言うか物語の軸は定まっていなかった印象。
 
まずゴジラ出現の原因となった水爆実験がアメリカからフランスへと変更された。
地球の裏側でアメリカが行っていた水爆実験の罪がニューヨークに上陸したと言うのなら分かりやすくなったと思うが、そこはアメリカ製作なので難しかったのだろう。
それなら冷戦時代を舞台にして、ソ連の水爆実験でゴジラが出現し、冷戦状態がゴジラと言う怪獣を通してニューヨークで熱戦に変わると言うのもアリだったと思う。これならソ連核兵器をイメージしたゴジラをアメリカ軍が倒すと言う決着も理解できる。
 
フランスの水爆実験になった理由は怪獣が太平洋に姿を現した『ゴジラ』の展開に倣っての事だと思われる。しかし、南太平洋から大西洋のニューヨークにゴジラが移動する理由が弱く、展開が強引になってしまった。ここは『ゴジラ』の設定を中途半端に引きずらずに全てをアメリカ舞台に置き換えて大西洋出現にした方が良かった。(そうなると、ゴジラ出現の場所はキューバ辺りになるのかな?)
 
とにかく、本作のゴジラはフランスの水爆実験の影響で出現したので、フランスをイメージする事となった。そのゴジラはニューヨークに出現した後、海に帰らずに街に潜んで子供を産む。そうしてゴジラが増えたらニューヨークは壊滅すると言うのが全体の筋書き。
そしてフィリップ率いるフランス諜報部はニューヨークのビルを多く所有し、市長に資金援助を名乗り出る一方、アメリカ軍に知られる事無く街に潜んで活動を行い、ゴジラに関する情報を隠蔽していく。
自分はアメリカの事情には詳しくないので想像で書くが、本作はゴジラとフィリップと言うフランスをイメージさせる二つの化け物がニューヨークの街を舞台に暴れると言う「アメリカに入り込んだ外国人の恐怖」を描いた作品なのではないだろうか?
 
最初の方で自分は「この作品は物語の軸が定まっていない」と書いたが、それはこの作品が「アメリカを舞台にした作品」なのに「アメリカ視点が弱かった」事が原因だと思う。主人公はニックなのだが、意外とニック視点で見ると話のテーマが分からなくなるところがある。
 
主人公のニックは実はかなりの完璧超人
調査して得た結論は正しいし、アメリカ軍に配置転換されてもフランス諜報部に誘拐されても割とすぐ順応して周りと良好な関係を築いている。情報漏洩で対策本部から外されても取り乱す事無くゴジラの巣を探すべきだと冷静に忠告していた。強いて挙げれば、オードリーとの関係に問題があったが、あれもニックではなくオードリーの方に原因があった。
実はニックはドラマの登場人物と言うより解説役と言った方が正しい立ち位置であった。なのでニック中心に見るとドラマが淡白に感じてしまうところがある。
 
もう一つ、ニックは舞台となったニューヨークとの関係が薄い。
ニックと別れたオードリーは「ニューヨークに行った」となっているので、ニックは元々ニューヨークに住んでいなかったし、現在もウクライナチェルノブイリにいる。ここはベタでもニューヨーク人にして、自分が住んでいる街を守るとした方が良かったかもしれない。
 
そのニックと後半になって行動を共にするのがフィリップなのだが彼の正体はフランスの諜報部なのでニューヨークとの関係は薄い。街の裏で暗躍する存在なので実は作品的にはゴジラと同じく敵に分類される立ち位置になっている。実際、彼がゴジラを倒そうとするのはフランスの汚点を消す為であって、その為には情報隠蔽も行う等、アメリカの自由を脅かす存在であった。
そんな彼を主人公側に置いて描いてしまった為、舞台であるニューヨークやアメリカを守ると言う軸がブレてしまった。ジャン・レノと言う役者が強すぎたと言う事かな…。好きな役者だけど。
 
では、誰が主人公なら良かったんだ?と問われると、答えはヒロインのオードリー。
やたらと評判の悪い彼女だが、夢を抱いてニューヨークに出たが現実を知って落ち込み、ゴジラ出現でチャンスを得て、お人好しでは駄目だと元彼氏を利用しようとするが失敗、今度はその元彼氏を助ける為に行動し、かつて自分を絶望させたニューヨークと言う街を守る為に自分がまだ残っているビルを爆破するよう軍に呼び掛け、最後は元彼氏とよりを戻し、ニューヨークの人々に賞賛されて街に戻ると、これが主人公でなくて何なんなのかと言う展開。
オードリーならニックよりニューヨークの街を守りたいと言う気持ちを分かりやすく描けたと思う。友達のルーシーも街に残っていたわけだし。
対峙するゴジラに関しても「ニューヨークにやってきたら酷い目に遭った」と言う共通項があるし、劇中ではゴジラはオスとされているが子供に対する態度でゴジラをメスにしてオードリーに感情移入させる事も出来たと思う。(ニックのゴジラに対する態度はあくまで研究対象)
 
 
本作に登場したゴジラはミサイルで倒されてしまったとして批判を浴びているが、日本のゴジラが重量感とタフさで強さ怖さを出しているのに対し、本作のゴジラは素早さで強さ怖さを出していたので、最後はその機動力を奪う事で今まで避けられていた攻撃を命中させて倒せたと言うのは理に適っている。
 
 
「こんなのゴジラじゃない!」と言われる事が多い本作だが、今度はその辺りについて。
 まず製作会社。
どんなに出来が良くても知らないところが勝手に作ってはゴジラシリーズとしては認められない。トライスターは東宝からゴジラの使用権を借りているので、その問題はクリアーしている。まぁ、関係者の『ゴジラ』に対する考え方や接し方には問題があったが…。
 
次にタイトル。
これは素直に『GODZILLA』なのでOKだろう。スーパーマンシリーズには『マン・オブ・スティール』と言うのもあるので、『キング・オブ・モンスター』とかでも大丈夫だった気もするが、ここは無難に『GODZILLA』の方が良いであろう。
 
そうなるとやはり問題はデザイン。
日本のゴジラも作品ごとにデザインは異なっているが、それでも「多くの人が一目見たらゴジラと分かる」中でのアレンジとなっていた。それに対してエメゴジはゴジラと説明されないと分からないデザインになっていた。
アメリカでの新シリーズなのでこれまでのゴジラとデザインが変わっても良いのだが、それまでのゴジラを知っている人達に「今度のゴジラはこれまでとは違ってしまっている」と思わせ、実際に映画を見る時にも「これまでのゴジラとは違ってしまっているところ」に目を向けさせてしまったのは事実だろう。
実は『GODZILLA』の前半部分は日本のゴジラシリーズよりも『ゴジラ』に近い作りになっていたのだが、デザインの問題で「今度のゴジラは日本のゴジラと違ってしまっている」と言う先入観を持たれた事で同じ部分よりも違ってしまった部分に目を向けられてしまった。
喩えが悪いと言われそうだが、ゴジラを全く知らない人に最初の『ゴジラ』を見せて次に『ゴジラ対メガロ』と『GODZILLA』を見せて、どちらが「正統派のゴジラ?」と尋ねたら殆どの人が後者を挙げると思う。でも、ゴジラを知らない日本人は少なく、実際は前者をゴジラとする人が多いだろう。ぶっちゃけて言うと、「人は見た目が9割」と言うやつ。
 
GODZILLA』は前半部分は『ゴジラ』に近い作りになっていたが、ゴジラの子供が登場する後半部分はアメリカのモンスターパニック映画を連想させてしまい、ゴジラシリーズとしてはマイナスイメージとなった。ゴジラの子供は次回作に回して今回は巨大ゴジラとの対決に絞った方が良かった。
ゴジラは体温が低いとか、1匹だけなのに子供が作れるとか、日本のゴジラを連想させる設定になっていて頑張ってはいたと思うが、ゴジラの子供の場面がそれらを吹き飛ばしてしまった感じ。
 
個人的にエメゴジは頑張って何とか予定通りに三部作にしてほしかった。そうすればエメゴジの形と言うものがもっとはっきりと出来上がって評価も今とは変わっていたかもしれない。
 
90年代前半に平成ゴジラがファミリー映画として怪獣映画を定着させ、その流れを90年代後半は平成モスラが引き継ぎ、一方で新たな怪獣映画として平成ガメラが出て、そして年一回の映画じゃなくて週一回放送のTVとして平成ウルトラが始まり、日本の怪獣作品が軌道に乗る一方、黒船の如く世界基準のスケールと予算と技術を持ったエメゴジが三部作作られ、それを迎え撃つ形で2004年に50周年として日本版ゴジラが復活する。
と言うのが自分が妄想した理想の流れだった。今更言っても仕方が無いが…。