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shoryu38の特撮・ヒーロー日記

ウルトラマン、鉄神ガンライザー、ゴジラ、ガメラ、アメコミ映画と色々な事を書いていくブログです。

『スーパーマンⅡ 冒険篇』(1980年公開)

『スーパーマンⅡ 冒険篇』(SUPERMAN Ⅱ)

1980年6月19日アメリカ公開

脚本 マリオ・プーゾ デイヴィッド・ニューマン レスリー・ニューマン

 

クリストファー・リーヴ主演のスーパーマンシリーズ第2弾。
 
前作はスーパーマンの「誕生」を描いたが今回は「試練」が描かれる事になる。
前半はロイスがクラークの正体がスーパーマンだとつきとめる話。
クラークはロイスの追及を何とかかわすのだが、燃えている炎の中にうっかり手を入れても火傷をしなかった事から正体がバレてしまう。ロイスによると、クラークは無意識のうちに自分の正体を明かしたいと言う気持ちがあり、それが知らず知らずのうちに出てしまったとの事。
後にスーパーマンは二重生活は大変ではないし、クラークと言う存在があったからこそロイスと出会えたと言っているが、それならロイスとの愛を成就させる為にスーパーマンである事を捨てる必要は無い。『Ⅰ』のスモールビル編でも描かれたが、クラークは普通の人間と変わらない精神を持っている。それがスーパーマンと言う超人の力を持っている事によるジレンマと言うのは当然あったのだろう。
ここでクラーク=スーパーマンは超人の力を捨てて普通の人間として生きる事になるのだが、ゾッド将軍による破壊行為で人々が傷付くのを見過ごす事は出来ないし、小さな田舎町で横暴を振るう悪漢を見過ごす事も出来ない。最終的にクラーク=スーパーマンは超人の力を取り戻してゾッド将軍と田舎町の悪漢を倒し、ロイスとの愛の記憶を消す。彼は人間として生きる事を諦め、超人として生き続ける事を決意したのだ。
 
冒頭はフランスで起きたテロリストをスーパーマンが退治する話。しかし、ここでテロリストが用意した核ミサイルがファントム・ゾーンに捕らえられていたゾッド将軍達を解放してしまう事になる。地球のテロリストの行為が宇宙のテロリストを解放してしまう事になったのだ。
 
ゾッド将軍はスーパーマンと同等の力を備えている。
アメリカとソビエトの共同計画である月面の調査場面で、人間は防護スーツが無ければ生きられないのにアーサは普通に歩いて会話してきたところに宇宙人の脅威が描かれていた。
こうして『Ⅰ』では地球内のお話だったのが宇宙へとスケールアップする事となった。
 
地球のテロリストやアメリカとソビエトと言った国家間の話がゾッド将軍と言う宇宙から来た外敵によって全て無意味となる中、独自の情報網と思考力でスーパーマンに関する情報を集めてゾッド将軍と交渉したルーサーはやはり凄い。口八丁でゾッド将軍達とやりあったんだもんな。最終的には殴り合いになったら負けてしまうと言うどうしようもない決定的な差が出てしまったが。(この弱点も後の『Ⅳ』でルーサーは自力で解決してしまう)
 
本作は監督交代やら何やらの問題があり、ジョー=エルを演じたマーロン・ブランドのシーンが全てカットされている。その代わりに母親のラーラ=エルがクラークに助言を与える役回りを果たしている。『Ⅰ』でもジョー=エルは息子のカル=エルが地球において英雄になる事を望み、ラーラ=エルはカル=エルが超人の力を持つ事で苦悩する事を心配していたので、『Ⅰ』でジョー=エルがカル=エルをスーパーマンとして育て上げ、『Ⅱ』でラーラ=エルがカル=エルを普通の人間にしたと言うのは上手く繋がっていると思う。
 
ニューヨーク決戦は街中での超人バトルを実写で描いていて物凄い迫力になっている。現在の作品に比べてスピード感は無いが一見の価値あり。本作の方が先だけど、『ドラゴンボール』の戦いを実写化したらこうなるのかなと思う。
それにしても何故にニューヨーク市民はとっとと避難しないのか? 逃げる暇が無いとかなら分かるけれど、明らかに戦いを見に近付いていたぞw いや、気になるのは分かるし、自分もその場にいたら野次馬で見に行ったと思うけれどさw
スーパーマンが殺されたと思ったら一般市民では勝てない相手でも皆で戦いを挑みに行くのはアメリカらしいなと思う。
 
最後の逆転のくだりだけど、あれはルーサーはどこまで理解していたのかな? おそらく途中でスーパーマンの真意を見抜いていたとは思う。
形勢逆転したら自分からアーサを殴り飛ばすロイスの凄まじさに思わず笑うw ヒロインが物理的にも強いのがアメリカ作品らしいw
 
事件が解決し、ロイスはクラークがスーパーマンである事を胸に秘めたまま生きていこうと決意するもそれに苦しむ。それを知ったクラーク=スーパーマンはキスをしてロイスの記憶を消し去る。
アメリカ作品なので最後はキスで締めると言うのは定番だけど、本作はそのキスが主人公とヒロインが遂に結ばれたと言う意味ではなく、主人公とヒロインの永遠の別れを示していて実に哀しい。ヒーロー作品でキスシーンはいくつかあるが、これほどまでに哀しいキスシーンもそうは無い。『Ⅰ』の空中遊泳もだったがこのキスによる永遠の別れもスーパーマンでしか出来ない恋愛描写。『Ⅰ』と『Ⅱ』におけるヒーロー作品と恋愛作品の融合の見事さはやはり素晴らしい。
 
クラークの秘密を胸に留めておく事に苦しんだロイス。でもこれはクラーク=スーパーマンは常にしている事。ロイスが秘密を留めておく事が無理だったと描く事でクラーク=スーパーマンの精神の超人振りとその孤独さも描いた。
 
 
リチャード・ドナー・カット版』(2006年11月28日アメリカ公開)
当初はリチャード・ドナー監督によって『Ⅰ』と同時進行で『Ⅱ』は製作されていたが、上層部との対立が起きてドナー監督は途中降板し、リチャード・レスター監督が後を引き継いで完成させたのが1980年に公開されて現在は「冒険篇」とされている作品。その後、2006年にドナー監督の監修によって再編集されたのが「リチャード・ドナー・カット版」となっている。
 
まず、マーロン・ブランドのシーンが復活した事で「冒険篇」ではラーラ=エルが登場していた場面がジョー=エルへと戻された。ゾッド将軍はジョー=エルへの恨みが強く、それがジョー=エルの息子であるスーパーマンへの挑戦へと繋がっていたので、ジョー=エルが登場する事でその対立構造が強調される事となった。
 
「冒険篇」と違って、ジョー=エルはクラークが再び超人の力を欲する事を見抜いていて最後の手段を残していたとなっている。「冒険篇」ではクラークは母のラーラ=エルと別れ、恋人のロイスと人生を歩む事を決めると言う母離れの話であったが、ここではスーパーマンは最初は父の保護の下で生きていたが、全てが終わると北極にある家を消し去って父の保護下から離れると言う父離れの話になっている。
また『Ⅰ』で語られた「息子は父に、父は息子に」と言う言葉が「世代交代」を示している事が分かりやすく描かれている。(さらにこの要素は後の『リターンズ』で描かれる事になる)
 
「冒険篇」では「クラークは自身がスーパーマンである事を明かしたかった」となっているが、本作では「クラークはスーパーマンに嫉妬している」と言う面が強調されていて、クラーク=スーパーマンと言う同一人物でありながら別人格のような描かれ方がされている。
本作ではロイスはクラークを拳銃で撃ち(実は空砲だったけれど)、銃で撃たれても死ななかった事からクラークがスーパーマンである事を暴くと言う展開であったが、これはある意味でクラークの「死」を意味している。
その後、正体を知られたスーパーマンはロイスと共に生きる事を望むのだが、そこでは「冒険篇」に比べてスーパーマンがヒーローとして生きる事を捨てたいと願っている事が強調されている。つまり、ここでスーパーマンは超人と言う力を捨てただけでなく人々を守ると言う使命そのものを捨てたとなっていて、スーパーマンはここで「死んだ」とも受け取れる。
意地悪い見方をすれば、ロイスはクラークとスーパーマンの二人を殺した女となったのだ。(実際、ジョー=エルが何か含みを持った目でロイスを見る(睨む?)場面がある)
 
前半でクラークとスーパーマンの「死」が描かれた後、田舎町の悪漢とゾッド将軍を倒す為にスーパーマンは「復活」し、事件が解決した後は皆の記憶を消す事でまた以前のようなクラークの日常も「戻った」と、本作はクラーク=スーパーマンの「死と復活」が描かれた作品となった。
 
「冒険篇」と本作の最大の違いとなったのは最後が記憶を消すキスからスーパーマンが地球の時間を巻き戻して今回起きた出来事全てを無かった事にした点。
「冒険篇」では「ロイスだけの記憶が消えた」なのだが、本作では「クラーク=スーパーマンだけが全てを覚えている」として、彼の孤独さがより一層浮き出る結末となっている。
地球の時間の巻き戻しだけど、自分は『Ⅰ』の感想で「正確には時間を巻き戻したのではなくて、スーパーマンは過去の地球へと行った」と書いたが本作ではロイスや編集長が時間が巻き戻される前の記憶をうっすらと持っているので正真正銘時間の巻き戻しが行われたと思われる。
 
 
最後に『Ⅱ』は敵キャラであるアーサさんが実にけしからんエロい格好をしていて実に良いです!