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shoryu38の特撮・ヒーロー日記

ウルトラマン、鉄神ガンライザー、ゴジラ、ガメラ、アメコミ映画と色々な事を書いていくブログです。

『大怪獣ガメラ』(1965年公開)

『大怪獣ガメラ

1965年11月27日公開

監督 湯浅憲明

特撮技術 築地米三郎

脚本 高橋二三

 

ゴジラ東宝に続いて大映が製作した怪獣映画ガメラシリーズの第1弾。
ゴジラを始めとする東宝の怪獣映画が定着した中、大映が新たな怪獣ガメラを生み出し、翌年1966年にはTVでウルトラシリーズと『マグマ大使』が放送され、さらに翌年の1967年には松竹が『宇宙大怪獣ギララ』を日活が『大巨獣ガッパ』を公開して「怪獣ブーム」と呼ばれる社会現象が起きた。
 
 
ガメラインパクトがあったのはやはり回転ジェットによる飛行シーンであろう。
それまでの東宝怪獣映画でもゴジラが口から炎を吐いたりはしたが基本的に地球出身の怪獣は生物の枠内に収まっていた。しかし、ガメラは炎を噴き出して空を飛ぶと言うこれまでの怪獣には無かった驚きのギミックを披露した。このギミックのインパクトは抜群で、外見は亀そのものでありながらもガメラは人々の印象に残る事となり、ゴジラと共に日本を代表する怪獣となった。
因みに本作におけるガメラと人類の攻防は東宝怪獣映画で多く描かれている展開をなぞっているが、一方で本作独自の要素である「子供と関わる」「核や炎と言った高エネルギーを求めている」「最後は大島に誘導する」等と言ったものが今度はゴジラシリーズで見られるようになると言う興味深い事が起きている。
 
 
本作は日高教授と俊夫少年の二人が主人公となっている。
日高教授は古代アトランティスの伝説を求めて北極まで行き、俊夫少年は亀を学校にまで持って行く等、二人とも自分の好きな事に邁進する人物として描かれているが、一方で決定的な違いもある。
 
日高教授が中心となって進むパートは怪獣出現に対して学者や軍人が力を合わせて立ち向かうと言う東宝怪獣映画のような展開になっている。日高教授がガメラを脅威に思いながらも研究対象として処分は惜しいと思ったり、青柳カメラマンが京子さんの事を「運命の女神」と呼んで慕うところがあるが、それらはセリフで少し触れられる程度に留められていて、全体的に人物の心情面は描かれず、ガメラ対策と言う事象に重きが置かれている。全体的に主観的なものが少なく客観的に描かれている。
 
一方で俊夫少年のパートは失った自分の亀とガメラを同一視し、周りの人間の都合は一切視界に入らず、自分とガメラのみの世界となっている。俊夫少年の心情面のみが描かれていると言う客観性が無い主観性のみで構成されている。(客観的に見たら俊夫少年の亀とガメラは無関係なのだが、俊夫少年の視点では失った亀とガメラはあくまで同一。俊夫少年のパートはこの主観と客観のズレがポイントとなっている)
 
俊夫少年は亀にのめり込むあまりに周りの人間との関係に問題が生じているが、一方の日高教授は周りとの人間関係が良好となっている。そして人間関係に問題を起こしている俊夫少年の言動は周りに理解されず、一方の日高教授はどんどん発言権を増していって最後は世界中の英知を結集したZプランの中心人物となっている。
このように俊夫少年と日高教授が対比されていくのだが、終盤でZプラン関係に使われている科学技術を目の当たりにした俊夫少年はそれまで抱えていた亀やガメラに対する異常な執着を捨て、日高教授の「ガメラが火星に行っちゃって寂しくないかい?」と言う問いかけに対してスッキリした笑顔で「寂しくありません! 僕も先生みたいな立派な科学者になって火星のガメラに会いに行きます! ガメラ! さようなら!」と答えるようになる。
つまり日高教授は俊夫少年の未来の姿の可能性であった事が示されたのだ。
 
 
全体的にサクサクとテンポ良く話が進む作品。
俊夫少年のパートは周囲との軋轢がもっと描かれるのかと思ったが、父や姉の言い分もちゃんとしていたし、居候先の子供との喧嘩も必要最低限の描写に留められる等、雰囲気が重くなりそうな部分は極力外されている。それが気軽に見られるところに繋がっているのだが、一方で亀やガメラに執着する俊夫少年の理由無き異常性が際立ってしまい、見る人によっては俊夫少年の言動にかなりイライラしてしまうと思う。学校の先生が言っていた「転校を繰り返す事で人の輪に入っていけず、自分の殻に閉じこもっていった」部分がもっと描かれていれば、俊夫少年に対する見方もだいぶ変わったと思う。